ギター上達コラム

     第53回  「やむにやまれぬ思い」 が原動力 

 

 もう40年も昔の話になるが、教室の練習用にと15000円のギターを買った。そのギターが今も健在で教室にある。合板の表面版で造りは値段相応の仕様ではあるが、これまで生徒さん用として教室に置き重宝してきた。昨年末、たまたま生徒さんの課題曲をその練習用のギターで演奏していたときの事である。隣に座っていた生徒さんが固まったように聴いているので「あれ、どうしましたか」と尋ねた。すると、彼は、少し間をおいて興奮気味に言った。「鳥肌が立ちました!」ハウザーで弾いているときにそう言われたのならわかる。自分でもハウザーで練習しながら“ぞくっ”とする程の演奏になる瞬間があり「鳥肌ものだ!」と思う時があるからだ。それなら「どうもありがとう」と納得の上でうなずいたであろう。しかし、私が手にしていたのは40年も前に買った古い合板のギターなのである。もっとも、いい感じだと思いながら弾いていたのは事実である。何だかいい感じだ!と自分自身が感じていることでも、あらためて人に言われると感慨深く心に届くことがあるものだ。私の中に、嬉しさと共に遠い記憶がよみがえってきた。

 

 私がまだ40代半ばの頃のことだったと思うが、名古屋にヴィルヒン・リースケというケルン在住の有名なギタリストが来たことがある。

彼は、コンサート演奏のために名古屋入りして、そのコンサート数時間前に私の教室に立ち寄った。彼は、教室に置いてあった上述の練習用ギターをひょいと手に取るとバッハの小品を数曲を弾き始めた。

そのギターの音色の豊かさと音楽性に驚いた記憶を鮮明に思い出したのだ。ギターの善し悪しで演奏の善し悪しが決まるのではない。その通りなのだ。とはいうものの、名器への信頼から生まれる名演奏はあるわけで、名器と言われるものは、その魅力のゆえに長い歴史を耐えてきた「よさ」を持っている。だから、どんなギターでも同じだとは思っていないが、なるほど使い手次第では、ある域までの演奏には届くものなのだということを、リースケの記憶と共に思い出したのだった。

 

 彼の「色彩豊かな演奏」について「セゴビアタッチによる繊細な演奏が引き出す美しい音色」という受け止め方の方もいたように思うが、ギターの善し悪しに関する記憶の方は明確に残っている。

その頃、私のギター遍歴はかなり長期にわたって続いていたが、今思えば無駄にも思える長いギター遍歴の中で「良い演奏は ギターに依らず」と言い切る力を持っていたのだろう。確かなことは、ギターの善し悪しで演奏が決まるのではないということだ。弾く者の熱く求める心「この音色が欲しい」「あのような演奏がしたい」という「やむになまれぬ思い」が全ての行動の原動力になっている。ギターで何を、どのように表現したいのか。目指したいのは何処なのか。思いの根っこが小さく弱いと、高みに届く至高の喜びはやってこない。

 

 私には、自分が向かいたいところが何処なのかがはっきりと見えている。そのことが、今後のさらなる飛躍に繫がると本気で思っている。

昨年の秋に開催した「食育とのコラボコンサート」以来、自分の心模様が違ってきていることを明確に自覚した。私の演奏に対する人々の感想もこれまでとは大きく変わってきている。だから、みよし市「サンアート」のロビーコンサートでも「心に染みて届く」と言ってくれた人に対して、依然と違って腑に落ちて手ごたえの在る受け止め方ができた。

音符の「間を奏でる」演奏のこと、演奏を繋いでいく「一本の糸」のこと、その時々にコラムに書き続けてきた小さな種が多くの経験を通して「存在感のある弱音」として芽吹き、私の中で大きく太く、実感をもって育ち始めている。あとは緻密な検証に向けて一歩一歩の研鑽あるのみである。今年で「古希」を迎えるこの時に、4枚目のアルバムを通してそのことを世間に問うことができることを嬉しく思う。

                         2019.02.01

                          吉本光男